シニアからの学び

介護・主夫業・花作り, etc. シニアから学びの日々が再び

私に無かった”覚悟”と”平常心” 「こころの処方箋」が教えてくれました

最近、自分の考えや価値観が、なんか違うぞと思え、さらに、70歳間際になっても、自分のことすら分かっていないことに気づき、あ然。

で、結局、あー自分には、自分の考えや価値観(大げさに言えば”生き方”)を変える「覚悟」がないと分かってきました。

70歳間際になって、初めてこれが分かったというのは本当に情けないです。私に無かったのは「覚悟」と「平常心」。

自分のこれまでの考えや価値観を変えるのは勇気が入りますね。変えない方が余計なことを考えなくて良いので楽です。でも、今までと同じだと、これから起きる様々なことへの対応、そして、家族の真の理解とサポートが出来ないと感じています。

そして、本当の自分のことすら分からない。そのためには、「覚悟」と「平常心」が必要と考えています。まあ、どこまで出来るか疑問ですが、目標にします。

 

実は、”覚悟”と”平常心”が必要だと分かったのは、臨床心理学者である河合先生の「こころの処方箋」を読み返してから。この本には、何度か「命がけ」という言葉が出てきます。この「命がけ」という言葉が、私の頭の中で「覚悟」に切り替わりました。

「こころの処方箋」の「20  人間理解は命がけの仕事である」に次の言葉があります。やはり、人間理解には「命がけ」、「覚悟」が必要でしたね。これが、私に無かったから、家族も嫁も真に理解できず、適切なサポートも出来なかったと思います。

 

『うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり「命がけ」と表現していいことではなかろうか。実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。』

(「こころの処方箋」 河合隼雄著 新潮社)

「他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。」これ、実感しました。嫁と娘達のことで話しをしていて、これまでと同じように、どうも私と考えが合わない。何故なんだろう?と考えているうちに、実は嫁が正しく、私が間違っているのではと思い始めました。河合先生が言われるように、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてきました。

 

■私が考える「覚悟」とは

覚悟は仏教用語でもあり 仏教では「迷いを去り、真理に目覚めること」 を意味しますが、より具体的に考えて、

「どんな問題に直面しても平然と冷静さを失わず 問題に適切に対応できる」

ことだと考えています。そのためにも「覚悟」に加え「平常心」も大事ですね。

 

なお、これを実現するには、私自身以下が必要と考えています。

【心構え編】

①自分の考えのとらわれから脱却する(不潔恐怖症・こだわりの数字からの脱却)

②やり過ぎの完璧主義から脱却する(常に力の入った完璧主義からの脱却)

③思い込みから脱却する

④現実を受け入れ、変化を恐れない

⑤変えられること、変えられないことを区分けし、変えられないことには耐える

【行動編】

①体と心に力を入れすぎない

②行動はすばやくスタート、動作はゆっくり

③人を否定しない非難しない

④笑顔(ほほ笑み)を忘れない

 (「決して怒らず いつも静かに笑っている」宮沢賢治さんの詩)

⑤来る者は拒まず、去る者は追わず

 

■「こころの処方箋(新潮文庫)」 河合隼雄著 から

この本の「1 人の心などわかるはずがない」に次の言葉があります。

『速断せずに期待しながら見ていることによって、今までわからなかった可能性が明らかになり、人間が変化してゆくことは素晴らしいことである。しかし、これは随分と心のエネルギーのいることで、簡単にできることではない。むしろ、「わかった」と思って決めつけてしまうほうが、よほど楽なのである。』

(「こころの処方箋」 河合隼雄著 新潮社)

そうなんですよね。人の心は(自分の心も)簡単に分かりようがないですね。分かったと思っても、しばらくすると、アレッ違うぞとなってしまいます。人の心は、「わかった」と思わず、なんどもなんども考え直しする。でも、その間に、人は成長し、また考え直す。それを繰り返していくんですね。まるでスパイラル曲線です。

 

『「心の 処方箋」は「体の処方箋」とは大分異なってくる。現状を分析し、原因を究明して、その対策としてそれが出てくるのではなく、むしろ、未知の可能性の方に注目し、そこから生じてくるものを尊重しているうちに、おのずから処方箋も生まれでてくるのである。』

(「こころの処方箋」 河合隼雄著)

「未知の可能性」は人の言葉や行動からは見えませんね。「いやまてよ、もしかしたら、言っていることと本音は違うんじゃないかな?」という新しい視点で見ないと、解決策は見つからないということを言っていると思います・・・本の中でも大事な箇所なんだけど、なかなか難しいです。

 

■私が考える「平常心」とは

平常心という言葉は、禅にもあり、禅では「びょうじょうしん」と読みます。その意味は、

「いかなるときに置かれてもその状況に惑わされることなく、悠々と普段と変わらない落ち着いた静かな心で対処できること」

になります。

この平常心、単純な言葉ですが、なかなか味わい深いですね。私は、何事にも敏感しすぎて、すぐに反応してしまいます。家族の問題もしかり、何か問題があったとき、すぐにアレコレと動き、アレコレとアドバイスしがち。でも、これって、意外と解決にならないですね。

それより、問題が起きたときでも、アタフタせず、しばらく様子をみていた方が、良い場合が多く、そうすることで、問題点がはっきり見えて、意外に適切で良い解決策が見つかります。

だから、どんな問題が起きても「平常心」で落ちつくことが、とても大切な気がしています。道元禅師の言葉に、次の言葉があります。

『ただまさに、やわらかなる容顔をもて、一切にむかうべし』(道元禅師)
このことばは、『正法眼蔵』にあることばで、「どのような場合でも柔和な態度ですべての物事に接しなさい」という意味です。問題が起きたときに、「やわらかなる容顔」であれば、周りの人も安心して、一緒に問題対応ができます。「やわらかなる容顔」、なかなか味のある言葉ですね。

 

”覚悟”と”平常心”、ペアで持つことにより、お互いを強化できますね。「覚悟」があるから「平常心」になれる、「平常心」があるから「覚悟」できる。